
わさび田 (2024.9.4 高知県いの町)

わさび田 (2024.9.4 高知県いの町)
植物を追っているうちに、ふと気が付いた。周りと違う植物がある場所というのは、周りと違う人の営みがあり、周りと違う時の流れがある。石灰岩地帯に行けば、石灰岩地帯特有の植物があり、蛇紋岩地帯でもそれは同じで、悠久の時の流れの重厚さを感じつつ、それでも人間が砕石のために破壊した場所には一様に荒れ地の植物が繁茂していたり、草一本も生えていない荒涼とした砂の世界になっていたりする。要は、地史が同じであれば同じような植物相が形成されるが、ある種の鉱物は人間が積極的に消費するから、結局やはり同じような破壊、人為的な風景が形成される。地史と歴史 (人間の活動) が紡いだ重層的なコンテクストがその土地の植物相を規定し、その植物相がまた地域のコンテクストを形成するというラリーが連続する地上でモザイク状に営まれ、その結果それぞれの地域に固有の風景が不連続な境界を伴って象られる。
自然科学の知見に基づく生物多様性保全の在り方は、しばしばこの歴史という観点、人間の活動を見落としているのかもしれない。保護区の指定や草刈りボランティアによってある種の “理想的な” 環境を残そうとする試みは、現時点から見た誘導したい未来を常に志向するけれど、それと同じくらいの関心を、なぜ現時点までその環境が存続してきたかという過去と現在の連続性に向けられない限り、それはある意味では鉢植えによる域外保全と大差ないのかもしれない。というのは、保全区内の生物は、積極的な介入によって未来の時点まで保全されるかもしれないが、その植物を保全開始の時点まで存続せしめてきた保全区外の環境が変化してしまうがために、結局はその保全のための積極的な介入が一度中断されてしまえば、たちどころに保全区も保全の価値を失いかねない脆弱さを孕んでいると考えざるを得ないためである。具体的に、やる気のあるリーダーが在籍している間は保全がきちんと行われていたとしても、移動や定年、死亡などによって上手く引き継がれなくなった時に、結局その保全の対象が失われてしまうという陳腐なエピソードはいくらでもある。
約12万年前から1万年前までの最終氷期のうち、北アメリカ大陸やヨーロッパの氷河が最も発達したのは約1万9000年前と推定されており、その後一転して急速な温暖化が進んで、約7000年前には縄文海進のピークを迎えている。本邦の照葉樹林に着目しても、その分布の変化はこの氷期から間氷期に至る1万年前後の間で急激に変化していることが分かる。このことから、植生というのは人間の活動が無くとも、1万年という時間があれば、少なくとも日本列島というスケールの中ですっかり変化してしまうものであるという認識が導かれる。そして紀元前500年頃から始まる弥生時代以後、日本列島は農耕のための積極的な開墾の一途を辿る。人間の活動が本格的に日本列島の植生を改変していく時代の幕開けである。現在生物多様性の保全を考える上で重視されている里地里山環境は、この弥生時代から現代に至る2500年間のうちに形成、拡大、維持されてきたものと考えた場合、2500年分の歴史的コンテクストを伴う存在と観ることが出来るかもしれない。もちろん、満鮮要素の植物は最終氷期の末に大陸から日本列島に移動してきたものと考えられているため、その点では少なくとも本邦において1万年の地史的コンテクストを認めうる。
次に燃料という視点で歴史を考えたとき、たらら製鉄は600年頃から記録があり、製鉄技術の発展とともに製鉄所付近の山ははげ山になっていたものと考えられる。また、人口増加に伴う薪炭の需要増加も森林の拡大を抑え、伐採による草原環境の形成を後押ししたことだろう。平野部には都市が、郊外、中山間地域には草原環境が、そして交通の便が悪い山間部には森林環境がシームレスに拡がっていたこの時代に、分布拡大において最も恩恵を受けた植物は草原性植物に違いない。そうしたトレンドの転換点は、間違いなく1800年前後の産業革命に求められる。石炭による動力が出現し、人類の生産活動が農業から工業にシフトしていく。本邦においては江戸時代末のことである。ちょうどこのような時代、1862年に、牧野富太郎が誕生している。
さらに別の視点として、化成肥料の導入を提案してみる。1884年のリン肥料の試験導入から150年足らずで全国津々浦々の農地は富栄養化したわけであるが、化成肥料の無い時代は貧栄養の草原というものが生活圏にあった。牧野の青年期は、燃料革命以前の、化成肥料が無い里地里山環境がそこら辺にありふれていたはずである。ある意味ではこういった環境は弥生から連続していたと言えるのかもしれない。一つの区切りとして、弥生時代から1900年までを第一層としてみよう。地史的なベースに人間の活動が自然に起伏をもたらしていく。人為の上書きが層として集積する。
1901年から1950年の間の50年間は先述の通り動力と栄養の時代である。明治維新を経て、これまでの大名による自治の世界から中央が管理する世界へと移行した。移動と職業選択の自由が獲得され、徴兵によって地方の若者は国内の異文化との接点を急速に増加させ、貿易の活発化に伴い諸外国の情勢がより重要な政治的イシューとなっていく。一人の人間が生涯に形成し得る異文化との結節点が爆発的に増加し、これを鉄道や車が強力にバックアップした。動力により、人間が開発出来る範囲は格段に拡がった。そして、化成肥料の導入は食糧事情の改善をもたらし、人口を増加させる。農村から都市へのその増えた分が動力の操作に従事し、加速度的に開発は進行していく。
第二層から第三層への転換点は、敗戦、そしてエネルギー革命と拡大造林であろうか。敗戦は、日本人のメンタリティーを考える上では絶対に欠かせないものである。全体主義の色彩が一気に否定され、文明開化の時の開放的な空気、個人主義が再び受け入れられていく。傷ついた人々と国土が急速に回復していく。ベビーブームによる人口のV字回復で木材需要は急増し、拡大造林は国策として猛烈に推進された。石油による動力はより大規模な開発を人類に約束し、道は次々に拓かれ、深山から大木を運び出すことも、そこに植林することも容易となった。山一つを宅地に変えることなど造作もないことであり、道は山奥までアスファルトで舗装され、1951年から2000年までの間で、私たちは平野や臨海部を人口の密集する高層ビルの伴った都市と工場に、中山間地域を造成地や植林地に、そして山間地域すらも植林地に変えてしまった。郊外や中山間の農村も、もはや炭を必要としない時代に移行したことで収入源を断たれた。農機の登場も、農家一軒あたりの耕作可能な面積を増加させる一方、農機の使用を前提とした圃場整備を促進させた。第一層において栄華を極めた草原性植物は、この第三層で急激に消滅していったと考えられる。
1900年代以降を50年単位で分節する試みは、植生の破壊を考える上では有用だと私は考えている。2001年から2024年現在の第四層は、環境保護意識の原理主義化と高齢化による荒廃の時代であろう。草原性植物の生育適地は第三層において徹底的に破壊され、その破壊を免れた僅かな空間が、中山間集落の消滅や離農に伴う人為的な介入の減少によってさらに消失していっている。特にキキョウがメルクマールとして利用しやすいため、キキョウに着目して考えてみよう。キキョウは沖縄を除く日本全土に分布するが、田んぼの畔やススキの繁茂した草原にはそれほど出現せず、大体は過剰な伐採を経たはげ山や貧栄養のため池の堤など、表土が露出するくらいか、ネザサなど丈の低い植物が繁茂する程度のオープンな環境に生える。すなわち、草原環境の中でも生育適地は限られるわけである。そのようなキキョウにとって生育地の富栄養化は間接的に致命的となり得る。富栄養な土壌ではネザサに変わってススキなどが大型化し、おそらく被陰によってキキョウは消滅する。水系で考えた時、ある斜面よりも上部に水田や畑がある場合、そこから流れる水の影響を受けるその斜面もまた富栄養化し、草本の大型化と、クズやカラスザンショウ、アカメガシワといった植物の急速な成長がもたらされる。頻繁な草刈りによってつる植物や木本の繁茂による荒廃が回避されていたとしても、キキョウも一緒に刈られてしまう。分枝の少なく、それなりに背の高い植物であるキキョウにとって頻繁な草刈りは致命的であるから、こうした場所でのキキョウの存続は難しい。同様の理由で畔も生育不適である。第一層の貧栄養な草原環境が普遍的であったころは、キキョウはあちこちで見られたことだろう。第二層で開発が進んだとしても、依然中山間地域は農村のままであったし、化成肥料の登場でも、水田に対して上流側には貧栄養環境も広がっていた。そして、柴刈りのために大木が存在しない里山や萱場も、キキョウが生育できる環境を提供していた。第三層において、薪炭林はスギ・ヒノキの植林地に置き換えられたり、宅地として造成されたりして、そもそもの生育適地が急速に狭まっていった。人里に近く、よく陽の当たる場所というのは、結局のところ地位級が高くなりがちであるから、木材がよく売れた時代は積極的に植林されたものである。植林を免れた場所であっても、薪や萱の利用が無くなれば当然薪炭林や萱場の遷移は進み、シイ・カシ二次林に移行していく。そうなるとキキョウが生育できる場所は、下方の水田に水を供給している山間の溜池の堤や、その溜池に向かうための管理道が第一に候補となってくる。そのような場所に辛うじて残っていたキキョウは、第四層において、ため池のコンクリート補強や利用停止に伴う埋め立て、離農による草刈りの停止、またそもそも過疎化によって中山間集落が消滅するなどの要因で、今や43都道府県でRDBに収載されるまでになっている。
私の出身地の兵庫県では、まだキキョウはRDB入りしていない。また、岡山、広島もそうである。沖縄を除く46都道府県中、RL指定の無い3県が瀬戸内の隣接する3県であるという点は考察に値する。思うに、これは瀬戸内海式気候が関係しているのではないか。少雨のために乾燥した低山は植林の対象となりにくく、アカマツを中心とするややはげ山、岩山的な草原環境が維持されている。また、この地域にはため池の数が多いことも有名である。大都市にアクセスしやすい好立地で人口も多く、過疎化の影響も他の地域と比べるとそこまで大きくは無い。こうした事情は逆説的に先述のキキョウの消滅ストーリーに説得力を与えてくれる。翻って今住んでいる高知県でのキキョウ事情を考えてみる。高知県ではRL1類に指定されており、滅多にキキョウを観ることは出来ない。高知県の森林面積率は堂々の全国1位であるが、人工林率も佐賀県に次いで2位であり、そもそも草原環境が少ない上、植林が積極的に行われた地域であることが分かる。高齢化率は秋田県に次いで全国2位、人口は高知市に集中しており、中山間集落の急速な消滅が進んでいる。「限界集落」という語も高知県発祥の概念であるくらいだ。それでも高知市北部を中心に東西に帯状に分布する蛇紋岩地帯は草原性植物の名所として知られていた。地質上の特性として、貧栄養なアカマツ林が成立していたのである。しかしながら採石と造成により、そうした蛇紋岩地帯の大部分は徹底的に破壊された。蛇紋岩地帯に特産していたトサオトギリが1994年を最後に確認されていないことがこのことをよく表している。そして、そんなトサオトギリが兵庫県の播磨地方に現存しているというのが、何とも象徴的なのである。
キキョウが生育する貧栄養な草原環境には、ミシマサイコやワレモコウ、オミナエシ、マキエハギ、ウンヌケといった植物がよく随伴する。いずれも現在では観る機会の減ってしまった植物ばかりである。その附近に水流があれば、水辺にはサワギキョウやキセルアザミ、サワヒヨドリなどが同じ時期を彩っているかもしれない。農道ではユウスゲやカワラナデシコ、ヒメミズワラビも出るだろう。オトコゼリなんかが出てくれたらなお嬉しい。こんな風に、ある種の植物を手掛かりに、どんな植物が出現するかをイメージすることが出来る。延々と記述してきたように、キキョウが現存している場所というのは第一層へのリンクがある場所である。地史と歴史を手掛かりに、重層的なコンテクストから過去への道順を辿る。これは不思議な感覚で、私はあえて「ダイブ」と呼んでいる。山に行くのだから「潜る」のサンズイが何とも変なんだけれど、時の流れを潜行する感覚はきっとダイブの感覚なのだろう。そういうわけでカタカナでイメージしている。その時私が観ている風景は間違いなく今の風景だけれど、あたかも過去を見つめている気になれる。原風景と言えるのかもしれない。大昔の写真と同じ景色を探す楽しみと同じである。
生物多様性の保全の話題では「自然環境のために人間が消えるべきだ」という極端な意見を眼にすることがある。また、希少な生物の生育地を秘匿したり、立ち入り禁止にしたりして人間の干渉を排除しようとする保護思想もある。しかしながら、本邦において人間の介在していない自然植生はもはやほとんど残っていない。ここでいう人間の介在とは、主に農耕や林業を念頭に置いている。そのため必ずしも人類未踏の地であることを求めない。そういう意味では、南硫黄島をはじめ、屋久島の登山道から逸れた原生林は自然植生であるし、その辺の低山であっても、尾根筋など植林がされていないような場所には自然植生が残っている。とはいえ、全体で観た割合では極僅かであるし、たいていの自然植生は人間の干渉を受けた環境に包囲されているものである。そのような自然と、人間の介在が前提となっている自然を分節する語が一般に馴染む語として存在しないために、自然保護思想は混沌としたイデオロギーの対立に終始しているように思う。ここでは、人間の介在が前提となっている自然を「応用自然」、応用自然に包囲された自然植生に基づく自然を「基礎自然」、海によって包囲が完成していない自然植生に基づく自然、言い換えると集水域たる自然植生が海に接続しているような場合を「原自然」と呼称して観たい。ここで、南硫黄島は自然植生が完全に海に囲まれているために、理想的な原自然と言える。屋久島は山麓部に応用自然が形成されているものの、包囲はされていないため、これも原自然にあたる。定義上島嶼部以外で原自然を見出すことはほとんど不可能であろう。あえて想定するのであれば、砂浜や海食崖に成立する植生は応用自然に包囲されていないため、原自然にあたる。アルプスの森林限界は自然植生であるが、応用自然に包囲されているために基礎自然となる。低山に存在する断崖絶壁も基礎自然である。登山道脇や植林地、里地里山、都市は応用自然にあたる。
この捉え方の良い点は、都市と田舎を分断しない点である。既に開発が完了し、”自然” の希少価値が高まった都市部の人間が、これからの開発を望む田舎に対し、自然保護を理由にその開発を阻害するようなケースでは、特に都市部の人間と田舎の人間の価値観に隔たりが生じやすい。都市と田舎を包摂する応用自然は、あくまでそこに内在する階層によって評価されるべきであろう。すなわち、応用自然のうち、第一層から第四層までの環境の変化が少なければ少ないほど、保全の価値は高い。基礎自然と原自然は原則人間の干渉を排除する方向で検討すべきである。特に原自然に関しては最も厳しく干渉を禁ずる必要があろう。実際、南硫黄島はそのような措置が執られているし、小笠原諸島も登山道以外の立ち入りには講習やガイドの同伴が求められるなど、合理的な措置が執られている。屋久島に関しては島の辺縁部は随分開発され、また植林も盛んであったものの、未だに原生林が海岸にまで到達している部分は存在している。この回廊を特に意識して保護すべきだと考えるが、現実的には頂上を中心として、同心円状に特別保護地区、特別地域、普通地域が指定されている。これは、あまりに奇異な屋久島中心部の環境に興味関心が行き過ぎて、山麓の亜熱帯環境を軽視した結果であろう。前川文夫が指摘している通りである。基礎自然は、我々にとって原自然よりもずっとアクセスし易く、文化的サービスの恩恵が大きい。湿原など必要に応じて立ち入りを制限しながらも、観光資源としての利活用も重視すべきではないだろうか。こうした分節は、メガソーラーの建設を例にとると理解し易い。原自然や基礎自然を開発してメガソーラーを敷設することは完全に自然破壊であり、応用自然であったとしても第一層にアクセスできるような場所も同様である。一方で、第四層が表出している場所、皆伐跡地や耕作放棄の末の荒れ地に建設することに抵抗はほとんど無い。放棄された薪炭林に成立したシイ・カシ二次林を伐採する場合はどうだろうか。これも階層的に考えれば幾分か価値判断が楽になる。自然植生でなくとも、社叢林のように100年単位で維持されている環境は、代替可能な場合は開発の対象とすべきではないだろう。そこにはある程度成熟した森林に依拠する昆虫や鳥類といった生物間相互作用が既に複雑に形成されていることが常で、これを破壊した場合、その再生には少なくとも1世代以上掛かり得るか、もはや再生できないからである。キキョウは各層で土地利用が更新される度に消失していったわけであるが、森林性の植物であれば、第二層にも第一層から引き継がれているものは当然存在する。それは第三層でも第四層でも同じである。第二層以降の二次林は、環境アセスメント調査を実施し、保全の利益と開発による利益との較量をする他無いであろう。
高知県本川地区のわさび田は、その風景をコンテクストとして把握した時に、とても複雑で貴重なものである。今回はこの風景にダイブしてみよう。石鎚山系の山々と四国の大河川吉野川の源流を擁するこの地区は、四国の中でも最も標高の高いところにある集落の一つである。伝説によれば1185年の平家の落人の定着が地域の起源とされている。山深いところであるから、伝統的に農業は盛んでなく、ジャガイモやソバが小規模に生産されていた程度で、江戸時代においても一帯は天領として手厚く保護されてきた。そのため、石鎚山系には基礎自然がまとまって残っている。具体的にはブナを中心とする冷温帯の自然植生が現存しており、岩崖には亜高山帯に特徴的な草本が生育する。それでも麓はよく植林されており、スギ・ヒノキが多い。わさび田は植林地内に取り残された沢沿いにあり、50年ほど前に信州の生産方式に倣って導入した石積みのものである。以後地元の方による管理が続けられている。わさび田の周囲はカツラやカエデ類が多く、沢筋にはオオヒメワラビ、ミヤコイヌワラビ、オオクジャクシダといった渓流畔のシダ植物が生育する。こうしたシダは高標高地では観られず、かといって植林地内の暗い林床にも出現しない。よく「自然度が高い森林」と表現されるような場所の植物と言える。自然度はまったく定義の無い語であるから、ここでは基礎自然に好発の植物と表現しよう。基礎自然が高標高地に限られる石鎚山系において、こうした山麓の手入れされた環境は、在りし日の遺伝資源を現在に残す貴重な場所となっている。オオヒメワラビは手箱山付近で採られた標本と、秩父で採られた標本を基に牧野富太郎が記載した植物である。秩父の標本が選定基準標本となったため、手箱山付近は模式産地ではないのだが、文献上明治まで遡ることが出来、記載者がそれと認識した産地という意味では依然分類学上重要な産地である。開発は第三層の時代であるから、このわさび田の歴史的コンテクストは第一層、第二層を欠き、第三層が現在まで露出している環境と言える。ベースの上に直接第三層が形成されているために、基礎自然の頃の遺伝資源が代替環境としての第三層に移行し、人為的、積極的な管理によってこれが意図せず保全されているわけである。
残念ながら、この風景は集落の高齢化によって20年後には間違いなく消滅している風景である。管理がされなくなり、荒廃していった場合、この場所は第四層に覆い尽くされ、保全価値は大きく毀損される。そして、現行の保全思想では、こうした微小な環境を保全の対象としてピックアップすることが困難であり、価値を正しく認識されることも無く、人知れず消滅していっているのである。こうした荒廃を前にして、私はどう環境保全に向き合うべきなのだろうか。たとえば私がこのわさび田の価値を力説し、個人的に保全活動をしたところで、先述の通り私の活動が無くなればやがて消えゆくのは明白である。一方で、人が介入して在りし日の遺伝資源が残っていくという点では、別に農業だろうと保全活動だろうと違いはない。両者の決定的な違いは、業として行っているかどうかである。思うに、ボランティア前提の保全活動は、保全する人間の持続可能性を考慮出来ていないからこそ、保全対象の持続可能性も危ぶまれるわけで、きちんとその活動に対して対価が支払われ、無理なく活動出来ていくならば、業としての保全活動はある意味伝統的な農業の代替活動になり得るのかもしれない。
その上で、私は必ずしも保全という大義名分に固執しなくても良いのではないかという、個人主義的で享楽主義的な考えを支持している。保全というのは、自身の趣味に正当性を与えてくれる錦の御旗なわけであるが、しばしば個人では如何ともしがたい現状と、自らの掲げる理想との差異が線をたわませ、そこに綺麗に体が絡まって、自縄自縛に陥っていく。そういう義務感じゃなく、単純な好奇心、過去と対話したいという純粋な動機で世界を切り取り、それを人に紹介するというだけで別にいいんじゃないかと思っている。このわさび田も、消えるなら消えるでそういうものなのだろう。私も消える。世界も消える。消えた後は、静かで、画一的な場が延々と拡がっているのだろうか。そういう場所に行くのなら、その前に複雑で賑やかな生を、思うままに楽しみたいのである。消滅危機風景、それは、私の眼に映るコンテクストの記録。

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